忠臣蔵
意地悪な上司のせいで切腹に追い込まれた殿様のために、
命を賭けてカタキ討ちをする家臣。
赤穂事件を元にしたのが忠臣蔵である。
兵庫県赤穂市にあった赤穂藩
現在では観光名所にもなっている。
浅野家家老・大石内蔵助屋敷跡地には赤穂四十七義士並びに中折の烈士萱野三平を主神として赤穂大石神社に祭られている。
忠臣蔵のあらすじは赤穂観光協会が作成した動画でわかりやすく解説されている。
事件から吉良邸討ち入りまでの流れ
赤穂事件後、赤穂では城の明け渡しを命じられる。
幕府に恭順して城を明け渡すか、抗議の籠城か、城を枕にして殉死するか。城内ではもめにもめていた。
浅野家は豊臣秀吉の正妻の寧々(ねね)の実家
赤穂浅野家は断絶。
大石は殉死を希望する藩士たちから誓紙を取り、吉良義央の処断と赤穂浅野家再興を幕府に求める義盟を結んだ。
平穏に開城、明け渡しが決まり旧藩士は住み慣れた赤穂を去ることになった。
(幕府管理となり自由に赤穂に入ることも出来ず、赤穂藩とも名乗れなかった)
その後大石内蔵助と息子の大石主税(ちから)とともに京都山科に隠棲した。
その頃江戸では、動かない大石をおいて吉良を自分たちで仇討ちする急進派がいた。
そのリーダー格が堀部安兵衛。
大石も急進派を抑えるため人をおくるが、論破され急進派に加わってしまう。
堀部も大石に手紙を送り、仇討ちの督促をする。
江戸では生類憐みの令などで幕府に鬱憤がたまっていた町民たちは急進派を持ち上げ、
早く仇討してくれないかと迫っていた。浅野びいきの世論を減らす為か屋敷の蔵替えを命じたりもした。
(屋敷替えは実際に起こったが、何故屋敷替えをさせたのかは史料がなく、説が存在している)
元禄14年年末
江戸で高田郡兵衛が脱盟した。郡兵衛は堀部安兵衛と同じく、江戸急進派の一人であった。
脱退の理由は「再士官」憤りを感じる同志は多かった。
元禄15年1月14日
萱野三平自害
この日は、月こそ違うが主君の命日と同日であった。三平は自宅の長屋、西の部屋で自害して果てた。
遺書は父と大石内蔵助あてに2通。
同志達と共に約束を果たせない罪を侘び、そして討ち入りの成功を祈る旨を記したという。
後年事件をもとに制作された『仮名手本忠臣蔵』では、早野勘平とされ、腰元のお軽と駆け落ちをし、最後は自害して果てる悲劇の人物として描かれている。
なお、舟橋聖一作『新・忠臣蔵』やNHK大河ドラマ『元禄繚乱』では、兄の重通から、旧赤穂藩士らとの付き合いを咎められた上に折檻を受け、それを苦に自害するという筋になっている。(wikipediaより)
元禄15年(1702年)7月18日
江戸幕府は閉門中だった内匠頭の弟浅野大学の広島市広島藩への永預けを決定し、浅野家再興は絶望的となった。
大石は仇討を決め同年12月14日に吉良邸に47人で討ち入りをした。
討ち入りに至るまでに、多くの者が脱落していき、脱落していった者たちは「醜夫」などと呼ばれ蔑まれてた。
討ち入りのときは火事装束で向かった。
江戸では浅野家は火消し大名として有名だった。
夜間では集団での行動は法度であったが、役人に咎められたときに言い逃れる為だと言われている。
浪士たちは吉良邸の東西に分かれ、内蔵助は東の表門近くに、堀部や大石の長男、主税は裏門がある西側
表門、裏門から突入し吉良を討ち取った。
討ち入りの死傷者は0人
その後、46人は幕府預かりとなり切腹した。
寺坂吉右衛門信行(てらさか きちえもんのぶゆき)
寺坂は大石が討入り成功後に逃がし、成功の報を芸州浅野家など伝える旅に出したといわれている。
この行為は、寺坂に赤穂の浪士の吉良討ちの行為にこめた意図を広く天下に喧伝し、
徳川の御政道を質そうとした大石良雄の遠大なる謀という「神話」となります。
自害した萱野三平は「醜夫」とは呼ばれていない。
特に萱野三平は「48番目の浪士」と呼ばれることもあり、赤穂市の大石神社では討ち入った四十七士に加えて、浅野内匠頭と萱野三平の木像を祀られている。
また、東京・泉岳寺にある四十七士の墓所には、48基の墓があり、余分な1基は、萱野三平のものだと言われている。
ここまでが主な流れ。
疑問はいくつかある。
現代で考えれば吉良は被害者である。
喧嘩両成敗は無抵抗だった場合は例外とされている。
正当防衛もなく、証拠もない。
江戸に入り、武士そのものは廃れている。
戦場では腕っぷしが必要だったが、江戸時代では商いの力が必要。
家老などは他の大名に士官することも出来たが、禄の低い藩士たちはその場を食いつなぐだけで精一杯だった。
「武士は食わねど高楊枝」なんて言葉があったほど名誉を重んじる。
主君に仕え・録を食む我が身がその録を失って・路頭に迷ってしまった時、
つまり武士が武士ではなくなってしまった時に、武士である自分はどう生きるべきか。
自分が自分である続けるために、どうすれば自分を貫き通すことができるのか士官もない。
その為に仇討に参加したのではないかとも考えられる。
それでも町民からすればスカッとする話である。
また、浅野を支持していたことから君主に対して忠誠心がある
江戸における英雄として語られていた。
「赤穂義臣伝」はすぐに発禁とされたが、密かに薩摩藩に持ち込まれ
義臣伝読みと薩摩藩の精神教材として使われた。
「百世のもと感奮興起せしむ」
明治天皇が赤穂浪士を称えた言葉
勝手な想像だが、明治天皇がこの言葉を言った背景には
明治維新の立役者・西郷隆盛、薩摩藩がいたからなのではないかと思われる。
精神教材とされた赤穂義臣伝は暗唱できるほどだという。
現在、宮内庁のHPにて江戸後期から幕末に作られた事件の写本が公開されている。
「大石内蔵之助屋敷図」「吉良上野介屋敷図」「浅野内匠頭家来口上書等」
「赤穂浪人御預之記」「赤穂義人録」「吉良家日記」
著作権自体はそもそもないが
画像と翻刻に関しては「禁無断転載」になる為、当HPにて公開は出来ない。
画像など使いたい場合はお金と申請が必要になる。
図書寮文庫所蔵資料目録・画像公開システム
忠臣蔵は今も語られ、愛され、忠義の証とした英雄譚
ドラマや映画、忠臣蔵のハリウッド版まで公開されるほどだ。