赤穂藩主・浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)が、高家筆頭・吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしなか)に斬りかかり負傷させるという傷害事件が起こった。
喧嘩両成敗の法があったが、片手落ちとし浅野内匠頭は切腹を命じられた。
意地悪な上司のせいで切腹に追い込まれた殿様のために、命を賭けてカタキ討ちをする家臣。
赤穂事件を元にしたのが忠臣蔵である。
1719年に片島深淵が書いた赤城義臣伝(赤穂義臣伝ともいう)
浄瑠璃や歌舞伎で上映された『仮名手本忠臣蔵』が有名になった。
赤穂事件を元にした事実と創造をまぜた創作物である。
忠臣蔵が現在まで人気があるのか。やはり魅力としては忠義なのだろう。
①悪役の吉良上野介、意地悪な上司をかたき討ち(半沢直樹のように倍返し)
②殿様に対する忠誠心(社畜もとい義侠心)
③当時の将軍・徳川綱吉が出した生類憐みの令や喧嘩両成敗などの悪法、幕府に対する反感として支持(権威への反抗)
テレビドラマでも○○というテーマをもって描いている。
今回は忠臣蔵の元である赤穂事件を焦点にしていく。
事件当日、朝廷から下向していた勅使一向への返礼が行われる幕府にとっては重要な行事儀式の最終日となっていた。
浅野内匠頭は勅使饗応役を務める為、江戸城にいた。
勅使饗応役は天皇・上皇・女院より派遣されて江戸に下向してきた使者(それぞれ勅使・院使・女院使)を接待するために江戸幕府が設けた役職である。
吉良上野介は白書院の方から松之大廊下を歩いていた。
大奥の警護及び事務取扱役をしていた居留守番の梶川与惣兵衛に出会い
大広間の方にでて、角の柱から6~7間の距離あるところで今日のお使いの時刻が早くなったことを一言二言話していた。
吉良上野介は後ろから「此間の遺恨覺えたるか」と浅野内匠頭が殿中にて刃傷に及んだ。
梶川が止めに入り、浅野が吉良を斬った理由はずっと恨みに思っていたからというのだが、何があって恨みに思っていたかはわからない。
当時その場にいた梶川が残した「梶川与惣兵衛日記」に記されている。
「上へ対し奉りいささかの御怨みこれ無く候へども、私の遺恨これあり、一己の宿意を以って前後忘却仕り討ち果たすべく候て刃傷に及び候。此の上如何様のお咎め仰せつけられ候共、御返答申し上ぐべき筋これ無く、さりながら上野介を打ち損じ候儀、如何にも残念に存じ候。」
お上に対して恨みはないけど、私の遺恨があり、刃傷に及んだ。この件には言い訳せず処分を受ける。
残念なのは上野介を討ち損じたこと。
「上野介はいかがに相成り候や」
吉良がどうなったかだけを気にしている様子だったという。これに対して多門は長矩を思いやって
「老年のこと、殊に面体の疵所に付き、養生も心もとなく」と答えると長矩に喜びの表情が浮かんだとも書いている。
テレビ・映画・芝居では
① 吉良が浅野内匠頭を侮辱する。
② 浅野内匠頭が「吉良待て」と声をかけてから正面から吉良に一太刀浴びせ、吉良は額に傷を負う。
③ 逃げる吉良を追って浅野は吉良の肩口に一太刀浴びせる。そこへ梶川が止めに入る。
上之部屋には御三家
大廊下(おおろうか)は、将軍家の親族が詰めた殿席。上之部屋と下之部屋の二つに仕切られていた。
その大廊下では従四位下以上の官位
殿中では刀を抜いた時点で死罪。なお、吉良上野介は刀を抜いてはいない。
将軍徳川綱吉はこの出来事に激怒し、内匠頭は田村右京太夫邸に送られそのまま即日切腹、赤穂浅野家は改易に処せられた。
一方、内匠頭に眉間と背中を斬り付けられたものの浅手で済んだ上野介には何の御咎めも無かった。
吉良上野介義央は浅野内匠頭長矩の指導役であり、内匠頭の失敗は指導役である上野介にも責任が及ぶ
切りつけた理由は今ですら判明してはいない
責任が及ぶならいじめなどする気もないはずだ。
吉良上野介が浅野内匠頭に行った“苛め”の内容
①勅答の儀の礼服は、烏帽子大紋なのに長裃でいいと嘘を教えた。
②勅答の儀の時刻につき、吉良が嘘を教えた。
③料理は「精進日であるから精進料理にせよ」と吉良が嘘を教えた。
④増勅使参詣に畳替えが必要なのに長矩にだけ教えなかった。
⑤用意した墨絵は「勅使様に無礼である」と金屏風に変えさせた。
⑥吉良が上からの指図書を長矩に見せなかった。
⑦勅使を迎える位置を尋ねたのに吉良は教えてくれなかった。
吉良上野介は気のいい名君として町民に親しまれていた。
しかし、事件の三年前に勅使饗応役を務めた津和野藩主の亀井茲親[かめいこれちか]が怒って上野介を斬ろうと謀ったが
家老が吉良に賄賂を贈って穏便に済ませたという話、そして吉良が親戚の津軽公の家で御馳走された際に「おかずは良いが、飯がまずい」と放言したという話…。
記録が定かではないので嘘のような話だが、こんな話が作られるくらい、江戸城では大名旗本には嫌われていた。
幕府高官である吉良が証拠を残すのだろうか。
勅使や院使の狂王に失敗したら責任を問われるのは吉良自身。
苛めは陰湿なもの。致命的な苛めにならないように、手加減していたのかもしれない。
自分の領地は大切にするけど他人の領地は気にしない
本当に苛めがあったのかも知れない。
他にも様々な説がある。
①精神病を患っていた。(乱心していた)
②頭痛持ちだった為、苛めに耐えられず我慢の限界にきた。
③「栗崎道有記録」によると癇癪持ちだった
殿中で刃傷したらお家取りつぶし、領地没収
あとのことを考えてなかったのかすべてを台無しにしてしまった浅野家。
浅野家にまつわる記録、書物が残されていない
日記や事件に関わった人たちが書いた古記録は一次史料なので信憑性があるが、
赤穂事件は史料でさえ疑問符にされていることが多く、真実は闇の中。
疑問に思うのは松之廊下は広く見えやすく、突発的に襲うには見ただけで嫌悪するぐらい怒っていたか、計画性があったのではないかと考察する。
何も殿中で行わなくてもいいのではないだろうか。
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赤穂事件と四十六士 (敗者の日本史)